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CROSSTALK
2022.02.18
文化人類学的視点で語る「部屋から、遠くへ」 ━後編━ 松村圭一郎×阿部航太 “ところで、人はなぜアートを鑑賞するのか?”
Illustration / Fuyuki Kanai
Edit / Eisuke Onda
「部屋から、遠くへ」。しかし、世界的なパンデミックに見舞われ移動を制限されたことで、私たちの「遠く」の概念は物理的にも、精神的にも変わったはずだ。目まぐるしく社会は変化し、市井の人々の価値観や暮らしも変化していく。そんな中、「アート」を鑑賞する、あるいは表現することは、どのような意味をもたらすのか。そのヒントを、文化人類学を専攻する二人の対話に求めることにした。
一人はエチオピアのフィールドワークを行う松村圭一郎さん、もう一人はデザイナーでもあり、ブラジルのストリートアートを調査する阿部航太さん。
前編ではコロナ禍を過ごしてきた約2年間を振り返り「遠く」の概念を見つめ直し、阿部さん手掛けたブラジルのストリートアートを記録したドキュメンタリー映画『街は誰のもの?』から自由なアートのあり方について話しました。
そして後編では、ストリートアートの持つ政治性の話に始まり、そもそも人はなぜアートを鑑賞するか?という根本的な問いを二人は考えます。
前編ではコロナ禍を過ごしてきた約2年間を振り返り「遠く」の概念を見つめ直し、阿部さん手掛けたブラジルのストリートアートを記録したドキュメンタリー映画『街は誰のもの?』から自由なアートのあり方について話しました。
街角で座るおじさんの政治性
――前編で松村さんが「グラフィティもスケートボードもデモも、いずれも街への介入という点において同じ地平にある」という話をされていましたが、実際のところブラジルの人々はどれくらいそうした行動の持つ政治性に意識的なんでしょう。
阿部:僕が見てきた限り、政治性については意識的なところが大きいと思っています。ブラジルは国が作られる段階で外部から資本主義的な圧力が掛かってしまっていたため、政治が成熟することなくずっとグラグラ揺れ続けてるんです。だから、彼らはある意味で大文字の政治には期待していないところがある。だからこそ、日々の中で自分たちの暮らしをつくっていかなきゃいけないという意識がものすごく強いんです。ただ一方では体制に反発するという意識もすごく強くて、実際、政治的なトピックはグラフィティやZINEにおいてもよく登場する身近なトピックとしてあります。クリエイティブなことをしようというとき、まず最初に掴むトピックが政治なんですよね。
貧困、女性差別への抵抗をうたったリオデジャネイロのグラフィティ。ブラジルにはこのような素人が描いたような絵柄も多く存在する。(写真:阿部航太)
だから、街をただ歩いていることが政治的な行為なんだと言語的に理解しているかどうかは別として、自分がここで遊んだり、ここで絵を描いたり、ここで商売をしたりするということが当然の権利であって、それは自分の生活をつくるために必要なことであるという意識は広く共有されているように思います。そこは日本とはかなり違うところだと感じましたね。
松村:僕はエチオピアでフィールドワークをやってきたんですが、ブラジルと重なる部分が結構あるように感じます。まず彼らはみんな街をぶらぶら歩くんです。何をしているんだか分からないけど、人が街場にワラワラといる。別に目的らしい目的はないんです。みんなすることがないから外に出るんだけど、お金もないし街外れまで歩いてただ戻ってくる、みたいな。彼らはそれを「シュルシュル」と呼んでいました。日本語でいうと「ブラブラ」ですね。
阿部さんの映画でも街角でただ座っているおじさんがいたじゃないですか。エチオピアにも多いんですけど、日本ではあまり見ないですよね。ベンチに座るのとはまた違うんです。街角のふつうの道を自分の椅子代わりにしてしまう。自分が疲れた時にそこに座り込んでちょっと休む。ああいう身振りや所作には街を我がものにしている感じがあります。ここに座ってくださいと指示されているベンチではなく、ただ道端に座り込んでしまう。通行人には邪魔かもしれないけど、誰もそれをとがめたり、気にする様子もない。自然と風景の中に溶け込んでいるんです。
ブラジルのサンパウロでの一コマ。商業施設のショーウィンドウ前で、市民たちは自分で椅子まで用意してたむろしている(映画『街は誰のもの?』より)
彼らは政治的な言葉を話しているわけではないけど、すでにあの態度が政治的なんだと思います。街という空間を自律的に使っているわけですから。実際に街は権力が介入する空間でもあるわけで、だから街で勝手にものを売っていると取り締まられるわけですけど、それでも彼らは懲りずに路上でものを売る。一方、日本の我々はどうかといえば、常にお客様として用意されたサービスをその指示通りに使っているようにみえます。誰かが定めたルールの枠内でおとなしく消費者として振舞っている。この違いはなんなんだ、と思ってしまいました。
前編で話したアートの話と一緒です。教育やスキルの有無に関係なく、ここに描きたい、ここで歌いたいと思ったら実行するように、ここに座りたいと思ったら座る。その延長線上にデモとかもあるわけですけど、実は最も大事なのは政治的な主張をする手前の身振り、日々の生活の中でどう街に繰り出すか、この街場の使い方なんだと思います。それなしに「デモだ!」と言ってみても、その動きはデモのときだけで終わってしまいますからね。
阿部:それでいうとメキシコ南部のオアハカでは一番楽に金を稼ぐ方法の一つとして版画アーティストになるみたいなところがあるんです。特にオアハカは貧しいエリアで、若い人たちは職がないから版画を刷る。彼らは作品に政治主張とかプロテスト的な表現などを描くことも多いのですが、それが誰に買われるかというと欧米からの観光客なんですね。お土産として売買されてるんです。アートとクラフトと暮らしと政治がすごくナンパな形でないまぜになっていて、それがすごく面白かったんですよね。
アート鑑賞=視点の交換
――ところで、お二人はアートを鑑賞するという行為にどのようなことを期待していますか?
阿部:僕は視点を交換する装置としてアートを見ていますね。やっぱり自分だけで考えられること、認識できることって本当に狭いなと感じていて、その点、アートは自分だけでは絶対に届かない世界を認識させてくれるものだと思うんです。だから別に作品が綺麗だったり美しくある必要もまったくない。実際、僕自身、自分がこれまで見ていなかった、なんなら蓋をしていたようなものを作品から突きつけられて、うろたえてしまうという経験もいっぱいあって、むしろそういうことこそ重要なんじゃないかという気がしています。だから、展示などを見にいく時も、自分が好きそうなものを見に行くというより、これはなんかわけがわからなそうだなと思うものを率先して見に行くようにしています。
ブラジルで見たグラフィティも僕が純粋に好きな絵柄は3割くらいしかないわけです。ただ、それ以外の7割があるということが素晴らしいと思う。むしろそれがなきゃいけない。自分が嫌だと感じるような絵も街中にあるということが豊かさだと思うんです。絵柄が趣味に合わないもの、政治的な風刺のようなもの、考えるのもつらいなと思ってしまうようなもの、そういうものも誰かにとっては好ましいものだったり、あるいは切実さの伴ったものだったりする。そういうものが街にあることで確実に自分の視界は広がるし、さらに言えば僕には視界が広がることでより自分が自由になれるという感覚もあるんです。色々な考え方が世の中にはあるんだから、今の自分の考えに囚われる必要はないんじゃないかと思える。そういうことを期待して僕はアートを鑑賞しているんだと思います。
松村:僕は普段から美術館に通う方ではないので、アートについてあれこれ話せる人間では決してないんですが、岡山に住んでいることもあって、岡山芸術交流や瀬戸内国際芸術祭などのアートフェスにはけっこう行きます。岡山芸術交流では海外のアーティストなどを呼んで廃校になった小学校の校舎や街の壁面などに作品を制作してもらっているのですが、それと同時にナビゲーターと街歩きをして、面白いと感じるものを再発見してもらうという企画もありました。たとえば古くからある銭湯の看板がすごいオシャレだとか、ここのタイルがすごい面白いとか、そうやって街を発見していくのは、とてもおもしろいなと思う。アートという目で街を見直すと、「アートとは何か」という定義がズレていくんです。
3年に1度岡山で開催される国際現代美術展「岡山芸術交流」。毎回、世界的なアーティスティックディレクターがディレクションを行い国内外のアーティストが集まる。また、2019年開催時には、岡山芸術交流が地域に開かれ、浸透し、持続・発展していくことを目的としたパブリックプログラムのなかで、岡山市内全体をアート作品と捉え、街歩きをしながら看板や電柱などからお気に入りの作品を見出す「みんなで見つけるおかやま街角鑑賞」という企画が催された。
瀬戸芸もそうですよね。一応、アート作品を観るために島に渡るわけです。僕もそうで、瀬戸芸の期間はやっぱり島をめぐります。すると、作品は当然面白いんだけど、それ以上に島の人々の歴史とか、暮らしそのものの面白さに気付かされる。そうなると、作品だけが観たり、感じたりする対象ではなくなってくる。芸術鑑賞を口実にした島めぐりの旅のなかに発見や感動がある。多分、瀬戸芸のコンセプトの中にもそういうところが含まれていると思うんだけど、島でおばちゃん達が郷土料理をつくっていたり、移住したトルコ人がケバブを売っていたり、そういうことを再発見していくこと自体が地方芸術祭の魅力だと思ってます。
日本最大の内海の瀬戸内海で開催される芸術祭。瀬戸内海野島めぐりをしながら、展示作品をたのしめる。写真は2022年開催予定の「瀬戸内国際芸術祭」のメインビジュアル。
阿部さんの言うように「アートが新たに視野を拡張してくれるもの」なのだとしたら、必ずしも誰かが作った作品である必要すらないのかもしれないですよね。すでに存在するものにアートフェスティバルが額縁を与えるだけで、街角の銭湯が作品のように見えてくるわけですから。そもそも美術館がそういう仕組みじゃないですか。ここからアートが展示されてますよと額縁を与えることで、そこにあるものが作品として立ち現れてくる。
僕が以前に編集した『文化人類学の思考法』という本に掲載されているエピソードですが、ある美術館の現代アートの展示会で誰かがイタズラでメガネを置いていったらしいんです。すると、観客たちはそれも作品だと思い込んでしげしげとそれを鑑賞していたそうです。これはアートですよというフレームさえあれば、あらゆるものが作品になる。町全体をそういう新鮮な目で見ることができたら、色々な触発もあるだろうし、視野もまた広がって行きますよね。
阿部:瀬戸芸のようなものが大きいフレームだとすれば、街中を散歩して何かを発見するということは、自分なりの小さいフレームを持つことだと思いますね。それは同時に「見る」という行為が「表現」へと変換していくタイミングでもあると思う。その点、どうしても美術館とかだと作者の意図や趣旨文みたいなものが最初にフレーミングとして強めに設定されてしまうから、そのフレーミングで見ないと間違いみたいな強迫観念を抱きやすい気もするんです。でも本当はそんなことはなくて、美術館が用意したものとは違うフレームを自分で持っていってもいいんですよね。そうすることで表現者と鑑賞者という二項対立が交わっていく。
たぶん、アートってそもそも理解できるようなものじゃないのかもしれない。さっき視点の交換という話をしましたけど、それで何かを理解するというよりも、理解する上でのスタートラインに立ったということでしかない。ある作品を通じて「これはどういうことなんだろう?」と自分自身の中で対話が生まれていくことはすごく豊かな経験だし、僕はそういう時にアートって面白いなと感じます。
ブラジルはベロ・オリゾンチで活躍するグラフィティーライターのチアゴ・アルヴィンの作品。街をより良い風景にするために絵を描く。(『街は誰のもの?』より)
松村:そう考えるとアート鑑賞って、とても広い行為なんですよね。別に鑑賞者と作品が一対一で向き合うような二者関係に閉じられた世界でもなくて、その作品を通して誰かと話すとか、その作品を見ることを口実に人に会うとか、そういう広がりも持ったものだと思うんです。地域のアートフェスもお祭りですからね。普通のお祭りでも、参加者は神事そのものを目的としているわけではなくて、地区対抗で競い合ったり、男女が出会ったりしていく側面の方が大きかったりする。それを口実にみんなが祭りを楽しんでいる。
そして、それが政治的な介入なんだと思います。介入って権力に対する直接的な批判のことばかりではないですから。それだけだと政治に関わる余地ってすごく少なくなってしまう。それは元から意識が高くて、そういう問題に詳しい人たちだけの政治であって、ある種、余裕のある人にとっての政治でしかないんです。普通の人の政治は明日からどうやって食べていくかとか、街から人が少なくなって商店街のお店をどうしていけばいいんだとか、目の前の問題に向き合うことなんですよね。
やっぱり誰しもが政治の当事者であり表現の当事者なんです。街でどう自分が振る舞うか、誰に声をかけてどこで集まるか、そういうことが政治であり、アートなんだと思う。地域芸術祭も「まちづくり」とか「地域振興」とか言っちゃうとなんかカッコ悪い感じがしちゃうんですけど、そこで起こっていることは、私たち生きている街がアートのフレームを通じて今までより楽しくなったり、ものの見方を変えられたりするということで、それこそが政治的介入であり、逆に言えばそういうことができない政治は、そもそも政治ですらないですよね。
阿部:地域芸術祭も主催者、アーティスト、観客、参加者それぞれで意図はバラバラだと思うんですよね。でも、それがいいんじゃないかな、と。それぞれが全員楽しめる状況がそこに発生しているのであれば、それが成功なんじゃないかなって思います。地域とアートの関係については色々と言われていることもあるのかもしれませんが、アートも街もお互いに利用しあっていいと思う。
部屋の中にあるアートから、遠くへ
――アートとは何か、政治とは何か、街に介入するとはどういうことか、だいぶ「部屋から遠くへ」と話が展開してきたように思います。では最後になりますが、お二人は普段、個人的にアート作品を買ったりすることはありますか?
松村:エチオピアに行った時などにお土産として向こうのアーティストの作品を買ったりすることはあります。エチオピアにはギャラリーのようなものが昔はなかったんですが、最近は少し出てきていて。たとえば今この研究室に飾っているのは、いわゆる西洋絵画的な油絵なんですが、モチーフはやっぱりエチオピアっぽいんですよね。時には日本でも写真展などで作品を買ったりすることもありますが、どうしても飾る場所が限られているためたくさん買うのは難しいです。ただ、普段仕事をしているそっけない研究室に一枚エチオピアの絵画があるだけでちょっと違う空間になったりして、いいものですよね。
松村さんがエチオピアに訪れた際に購入した2枚の絵は、岡山大学の松村圭一郎研究室に飾られている。
阿部:僕は馴染みのギャラリーなんかで小さめの作品を買うことがあります。大きい作品はお金と場所の問題でなかなか買えないので(笑)。数年前から買える時には買おうって思うようになりました。やっぱり楽しいですから、家に絵があるというのは。
以前、僕は自分のアパートの部屋に壁画を描いてもらったことがあるんです。取り壊しが決まっていたアパートに引っ越したことがあって、現状復帰の義務がなかったんです。画家の弟と友人のアーティストにお願いして部屋中に描いてもらいました。もともと壁画に興味があって、家に絵がある空間に憧れてたんです。
そう言えば、この時も「遠くにある景色を描いてくれ」って依頼したんでした。まさに「部屋から遠くへ」ですね(笑)。遠くにあるもの、自分にはないものが部屋の中の目線に入るところにあることで、日々の生活のリズムがちょっと変わる。ふとした時に立ち止まれる。ただ好きなもので部屋を固めていくというのも一つだと思いますが、好きとは違うけど自分の感覚をズラしてくれるものが部屋にあるというのも悪くないと思います。
阿部航太さんが住んでいた部屋に壁画を描くプロジェクト「さくらぎマンション3B」。阿部さんの弟の阿部海太さん(写真下)と、安藤智さん(写真上)が制作。(写真:加納千尋)
information
松村圭一郎 著作『くらしのアナキズム』
“国家無き社会は絶望ではない”━━文化人類学の視点で国家がない状態での人々の暮らしを思考し、分析した一冊。国家に頼らない様々な民族の暮らし、過去の文献を通して、私たち自分たちの手で公共を作り出すことができることを論じる。
阿部航太 監督作品『街は誰のもの?』
「存在したかったんだ。その街に存在したかったんだ。」グラフィテイロ(グラフィティアーティストの現地での呼称)がつぶやく背景に広がるのは、南米一の大都市サン・パウロ。そこには多様なルーツ、カルチャーが混沌とするブラジル特有の都市の姿があった──阿部航太がブラジルの4都市を巡りストリートの表層と深層を撮影したドキュメンタリー作品。
シアター・イメージフォーラム(東京)、名古屋シネマテーク(愛知)に続き、2022年2月11日 京都みなみ会館(京都)、2月12日 シアターセブン(大阪)にて公開
machidare.com
DOORS
松村圭一郎
文化人類学者
岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークを続け、富の所有と分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎなどについて研究。著書に『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)、『これからの大学』(春秋社)、『はみだしの人類学』(NHK出版)、『くらしのアナキズム』(ミシマ社)などがある。
DOORS
阿部航太
デザイナー/文化人類学専攻
2018年よりデザイン・文化人類学を指針にフリーランスでの活動を開始。2018年から2019年にかけてブラジル・サンパウロに滞在し、現地のストリートカルチャーに関するプロジェクトを実施。2021年に映画『街は誰のもの?』を発表。近年はグラフィックデザインを軸に、リサーチ、アートプロジェクトなどを行う。2022年3月に高知県土佐市へ移住し、海外からの技能実習生と地域住民との交流づくりを目指す「わくせいPROJECT」を展開している。
volume 01
部屋から、遠くへ
コロナ禍で引きこもらざるを得なかったこの2年間。半径5mの暮らしを慈しむ大切さも知ることができたけど、ようやく少しずつモードが変わってきた今だからこそ、顔を上げてまた広い外の世界に目を向けてみることも思い出してみよう。
ARToVILLA創刊号となる最初のテーマは「部屋から、遠くへ」。ここではないどこかへと、時空を超えて思考を連れて行ってくれる――アートにはそういう力もあると信じています。
2022年、ARToVILLAに触れてくださる皆さんが遠くへ飛躍する一年になることを願って。
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